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富氏・登美氏・トビ氏(向家文献)

東出雲王国の王家だった富氏(あるいは向氏)の末裔の方が書かれた本があるそうです。

出雲と蘇我王国ー大社と向家文書ー 斎木雲州(大元出版)

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前はあんまり理解できなかったけど、知識が増えた今、再チャレンジ。

富氏伝承は、国譲り神話を出雲側から見た本当の歴史みたいなことらしい。

本当は向家(むかいけ)だけど、出雲の大祭で宝船(大黒様と恵比寿様)のように蔵がたくさんの土産物が溢れたことから富氏と呼ばれ、トビ氏と発音されたらしい。

出雲側からすると、国譲りはなく、神武東征は物部東征のことらしい。

この辺で、あれ?だって、神武天皇は竜宮城の豊玉姫の子供で竜の鱗を持っていて、国譲りでは巨大神殿を建てて国津神たちをビビらせたんだよね?と思って止まってしまうのですが、とりあえず横に置いておく…。

歴史はもっと複雑で、渡来したいろんな部族の歴史的要素をつなぎ合わせて一つにしてるから、ある意味、記紀はすごい、よくまとめたねと思ってしまう。

出雲伝承については、いろんな方が詳しく書かれてました。

「富氏の伝承-出雲族の渡来」

さらに詳しいブログ。

色々読んでたら、伝承とさらに追加の知識でごちゃごちゃになってます…。



シュメール系海洋民族だった原出雲族は、紀元前2,500年頃、大祖先であるクナトの神に引き連れられて出雲の地に着き、原住民に鉄、製布、農耕等を教え、出雲の王となった。

サイノカミ(塞の神)の主神クナトは古代インドの王であったが、部下を引き連れてゴビ砂漠を北上し、シベリアのアムール川を下り、津軽半島に上陸して、本州を南下して出雲に着いた。出雲とはもとは「出芽」だった。

信濃に建御名方命、大和に登美族(太田田根子→加茂(鴨)氏、大三輪氏)などの出雲族の分家が出来ていき、それぞれが土着の民人と融合し、地方の支配者となり、各地の大国主命となった。

出雲神族の神裔たちには、オオクニヌシやコトシロヌシ、ホアカリなどがいた。

ホアカリは、サンカの祖神でホアケと呼ばれている。

富當雄(とみまさお)さんは「我々の大祖先はクナトの大首長(おおかみ・岐神)だが、もう一つ隠された女首長にアラハバキ(荒吐神)があり、体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天へと変身した。」と言い遺し、伯耆大山(鳥取)では根深い地蔵信仰が見られる。

鳥取県の大山(もともと大神山)、三輪山、神奈川県にある伊勢原大山(おおやま)も出雲族。(神奈川の名も神奈備からきている)

倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻によると、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものだったという。

アラハバキは東北にあった東日流(つがる)外三郡誌に出てくる王国で、遮光器土偶がアラハバキ神。アラブから来たとも。

多賀城の多賀神社にも、クナトの神が祀られている。

クナト神の名は、エジプトのイクナートン(アクエンアテン)の「クナト」であるという説も。

古代ではワニや蛇(龍)やサメ、狼などをトーテムとして崇めた。三峰神社には三輪山と同じ三ツ鳥居がある。(墨田区の牛嶋神社にもある)

大神(おおかみ)と付く神様は、猿田彦大神や大物主大神など。

竜神信仰を禁じられた出雲神族は、弁才天と不動明王を裏信仰としたが、特に弁才天を選んだのは、古くから出雲系宗像三神のイチキシマ姫と同体視されていたから。

出雲族の祟りを抑える神として、修験のヒンズーの歓喜天(ゾロアスター教に続く民族)が生駒に祀られ、歓喜天というと大根。富神社(とび)の紋もアメノヌボコの剣二本だったものを大根二本にされてしまった。

大嘗祭の悠紀(ゆき)殿と主基(すき)殿は、鋤(すき、田を耕す道具、男性を象徴)と靭(ゆき、やを入れる道具、女性を象徴)で、出雲王の霊を下ろし、一体となる儀式。

出雲族が日本へ来たのが紀元前2500年ごろで、出雲王国ができたのが紀元前660年ごろ。

神武天皇のモデル、海村雲(あまのむらくも)が即位したのは紀元前2世紀頃。

村雲の就任時、出雲王から贈られた村雲ノ剣(銅剣・出雲型・草薙剣)は、のちに剣は尾張家(村雲の後裔)に渡り、熱田神宮に。



出雲は二王制で、交代で王を努めた。東が富家(向家)、西が神門臣家(かんどのおみけ)、主王が大名持(おおなもち)で、副王が少名彦(すくなひこ)。(記紀では大己貴(おおなむち)と分からないようになっている)

初代は八耳王(やつみみおう)、8代目は八千矛(やちほこ、古事記の大国主)、8代目副王は八重波都身(やえなみつみ、古事記の事代主)。事代主(言治主)は武力ではなく言葉で支配するという意味。

古事記では、出雲に来た徐福の話をホアカリとしていて、九州に来た時はニギハヤヒ(ニニギ)、日本書紀ではスサノオの話としている。

紀元前3世紀末、徐福(記紀ではスサノオ)が石見に来て、長男五十猛命を産んだ。

当時の大国主(八千矛)と事代主(八重波都身)は、徐福一団に幽閉され枯死。(夜見(黄泉)ヶ浜)

徐福の一団には、ホヒ(アメノホヒ)とタケヒナドリがおり、徐福が来る前に出雲に来て、八千矛(大国主)につかえていた。

徐福は、枯死事件の後に出雲を去り、秦に帰国。その後、九州に行き、吉野ヶ里遺跡を作り、物部氏(ニギハヤヒを祖神とする海洋系の部族集団)になった。

彼らは銅や鉄を扱い、新しい技術や祭祀形態などをもたらした。
 
徐福がいなくなり、出雲側とホヒらとは、長い時間をかけて一応和解し、出雲国造が出来た。

王・副王が死去したので、分家は多数の人を連れて、大和(奈良地方)に移住。

徐福の子、五十猛は丹波に移住して、海部となり、登美家とともに海部王朝を作った。(→磯城王朝、籠神社、綿津見神:宗形氏、安曇氏、住吉神:津守氏)

和邇氏・宗形氏は、大国主命・祖阿田加多須命(あたかたすのみこと)の子孫で、三輪氏の一族。

(和邇って王仁?神功皇后、応神天皇の時代に帰化した秦氏に弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主がいます…。)

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(上のサイトからお借りしました。)

事代主が死んだため、妻の沼川姫は越ノ国の実家に帰ることに。子供の建御名方富彦は諏訪まで進出、出雲国を広げ、サイノカミ(クナトの神)信仰が広まった。

本村の神代文字碑、ハングルに似た阿比留文字で、ヤチマタヒコノカミ、ヤチマタヒメノカミ、クナトノカミと刻まれていている。阿比留文字を使った対馬の阿比留氏は賀茂氏になった)

古事記では、タケミカヅチに負け、諏訪の海に逃げたとなっている。

古事記の内容のタケミナカタ富彦の記述がおかしいと、財筋は出雲国造に改変を求めた。

出雲は忍者の祖でもあり、出雲が3世紀くらいに滅ぶと、出雲忍者、出雲散家(山家)となり、秘密結社散自出雲(さんよりいずも、アヤタチという大親分がいた)と呼ばれ、丹波国などに住んでいた。

出雲では祖神の魂を具現化する勾玉(タカラ)を付ける王家は、財筋(たからすじ、秘密結社)と呼ばれる。(12軒)




出雲側の天皇の系図はこんな感じだそう。

  1. 神武天皇→アマノムラクモ(海王朝)
  2. 綏靖天皇→ヌナカワ
  3. 安寧天皇→タマテミ(磯城王朝)
  4. 懿徳天皇
  5. 孝昭天皇
  6. 孝安天皇→オシヒト
  7. 孝霊天皇→フトニ
  8. 孝元天皇→クニクル
  9. 開化天皇→オオヒビ
  10. 崇神天皇→イニエ(物部王朝)
  11. 垂仁天皇→イクメ
  12. 景行天皇→オオシロワケ

倭国大乱

魏志倭人伝には倭国大乱があったと記され、その辺の歴史がわからなくなっているが、出雲側の伝承ではこう↓

第1の戦乱:ヤマト内の覇権争い(①)…磯城王朝の弱体化、混迷
第2の戦乱:第一次出雲戦争(③④)…フトニ大王(7代大王の孝霊天皇)が出雲を攻撃し、吉備王国を作る。出雲の弱体化
第3の戦乱:第一次物部東征(⑤)…物部がヤマトへ進出する足がかりとなる


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(上のサイトからお借りしました。)

辰韓の王子ヒボコが入ってきて、150年ごろ、子孫が出雲王国領地の播磨を攻略。
(出石神社・いずしじんじゃ)

出雲王国はヤマトの磯城王朝フトニ(孝霊)大王に救援を求め、息子、大キビツ彦と若タケキビツ彦が播磨を攻略。(桃太郎伝説では、ヒボコ軍が鬼、キビツ彦が桃太郎。)

筑後の物部氏が紀伊の熊野から大和に侵入。フトニ大王は、物部氏を恐れて播磨(吉備)に逃れ、さらに出雲王国を取ろうと出雲に侵入。

出雲兵がたてこもった山は鬼住山・きずみやま、孝霊天皇の鬼退治伝説、樂樂福神社・ささふくじんじゃ。…この色の文字は補足的な説明。

フトニ大王が吉備や出雲を手に入れたがった理由は、鉄がとれるから。

出雲兵は敗走し、出雲側の要害山にて防戦。

オオナムチ(大国主)が兄の八十神(やそがみ)たちからいじめられ、殺されるシーンは、この戦いのこと(赤猪岩神社)

フトニ大王は大山(鳥取)の北に隠居し、余生を過ごし死去。(孝霊山)



第一次出雲戦争

大キビツ彦と若タケキビツ彦は、出雲南部戦線に向かい、双方たくさんの犠牲者を出すが、東出雲王国から差し出された青銅のインゴット(金属塊)を手に入れて満足し、奥出雲を占領することなく、吉備へ引き上げ、友好関係となった。

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説は、砂鉄の大産地、奥出雲を表している。


第1次物部東征

ヤマトと出雲が戦争を始め、手薄となったヤマトに、筑紫の物部軍(中国系男系社会)が攻めてきた。

第1次物部東征(神武東征のモデル)のリーダーが5・6代目(ヒコナギサタケ王)の王子、イツセで、ヤマト軍(磯城王朝)のリーダーは大彦(記紀では長髄彦・ながすねひこ)。

イツセは出雲王家の親族の名草村の戸畔(とべ)に殺され、弟のウマシマジがリーダーに。(イワレビコではない)

ウマシマジ軍が上陸した熊野は物部系スサノオ(徐福)信仰。ヤマトへ向かわず残った人たちが熊野に定着していった。(徐福公園)

大彦(長髄彦)は伊賀に王国をつくろうとヤマトを去り、出雲王家の分家の太田タネヒコ(オオタタネコ、三輪山の大神神社の初代神主)が、熊野の物部勢を導いて自分が大王になろうと考えた。(八咫烏・中国の信仰)

三輪山の鳥見山(とみやま)の(三輪山の太陽神の遙拝地は出雲族の信仰)等彌神社(とみじんじゃ)境内から、八咫烏の土偶が発掘されている。

フトニ大王の後、ヤマトの大王となったクニクル(第8代孝元天皇)は、物部と妥協し、物部氏の娘、ウツシコメを妃として迎えたが、出雲は太陽神を祀り銅鐸をシンボルとするサイノカミ信仰、物部は鏡を木にかけて祀る道教神崇拝で揉めた。

太田タネヒコは、物部勢の武力でヤマトの出雲勢力を弱体化し、三輪山の祭主となった。

三輪山の南(鳥見山)での祭りは、太田家の領地の三輪山の西(鳥見山)で行われるようになり、祭主が太田家になると、サイノカミ信仰の春と秋に太陽女神を祀る姫巫女(ヒメミコ)に娘のモモソ姫が推挙され、これが魏志倭人伝の卑弥呼となった。

239年に魏へ使いを出して、100枚の鏡をもらったヤマタイ国のヒミコは、後に出てくる豊玉姫。

太田家の領地は、纏向遺跡(まきむくいせき)。

魏志倭人伝に書かれたヒミコ(卑弥呼)は、実際には2人のヒメミコ。男王が70~80年(海王朝)続き、147年~188年の倭国大乱(磯城王朝)の後、ヒミコが女王となって平和が来て、ヒミコの弟がヒミコの世話をしたと書かれ、この190年ごろのヒミコがモモソ姫、弟は太田タネヒコのこと。


祭は物部勢の祭具の鏡を取り入れた形になっていき、丸い鏡は太陽の女神のご神体とされた。

オオヒビ(第9代開化天皇)のとき、太田タネヒコは物部勢をヤマトから追いだし、物部勢は九州へ戻った。

太田タネヒコは桜井茶臼山古墳に、息子の大御食持(おおみけもち)はメスリ山古墳に葬られた。

古墳の発祥は吉備(前方後円墳)で、出雲の四隅突出型墳墓は古墳には含められていない。前方後円墳は道教に由来するもので、徐福と出雲の融合。前方後円墳の始まりは太田遺跡。


第2次物部東征

物部の本家(徐福の子孫)は筑後平野(吉野ヶ里遺跡)にいて、232年ごろ、御真木入彦(みまきいりひこ・イニエ王・第10代崇神天皇)王は、薩摩半島の笠沙(かささ)でアタツ姫(アタの豪族の娘)に会い、后に迎えた。

記紀では、ホホデミ(ニニギ)が木花咲耶(このはなさくや・神阿多都比売)姫に求婚するが、姉の石長姫(いわながひめ)も一緒に迎えないと、あなたは短命になると警告され、醜女(しこめ)だったから実家に返したという話がこれにあたる。

イニエ王は都万(つま)国に都を造り(西都原・さいとばる遺跡)、アタツ姫(コノハナサクヤ姫)はイクメ王子を産んだが亡くなり、宇佐から豊玉姫を后として迎えた。これが第二のヒミコ。

都万はヤマトに次ぐ第2位の人口密集地となった。

魏志倭人伝に書かれている投馬(つま)国が、都万国。東九州から西中国にかけての地域が豊王国と呼ばれ、豊王国の中心は宇佐だった。宇佐宮の当時の主神は月の女神、月読命(つくよみのみこと)で、宇佐(うさ)はうさぎから転じた。

豊玉姫が生んだのが豊彦と豊姫。豊姫は豊来入姫(とよきいりひめ)、豊彦は豊来入彦。

海幸彦と山幸彦の竜宮の乙姫・豊玉姫の伝説は、山幸彦・ホオリがイニエ王、ウガヤフキアエズが豊彦、山幸彦(ホデリ)が物部氏、海幸彦は海(あま)家(初代大王である海村雲の子孫)。

都万国と薩摩半島の中間点の高千穂を、物部氏の祖が天下りした場所にして、高天原のモデルはヤマト。

最初に出雲族が移住した、葛城の南にある高天彦神社には、史跡高天原の石碑(祖先の霊が集まる場所)が。

魏は、漢を滅ぼした道教を弾圧して、勢力が強まっていた。

イニエ王が亡くなった後、豊玉姫はヤマト(磯城王朝)を出し抜くため、ヒボコの子孫タジマモリを味方につけ、韓国を通って、魏にヤマトだと偽り貢朝しし、敵国を聞かれ、大彦のいたクヌ国と答えた。

大彦は、第一次物部東征で北陸(クヌガ国)に逃げていて、クナ国の王クコチヒコは大彦の息子の久々知彦(ククチヒコ)。魏志倭人伝の使者、難升米(なしめ)はタジマモリのこと。

魏から贈られた100枚の道鏡は、道教の乱で禁止され、廃棄された道鏡をもらってきたもの。

国内で発見されている三角縁神獣鏡は呉から来た職人が作ったもので、すべてが呉からの職人がつくった倭人好みの日本製品。

呉の銅鏡作り職人が、和国へ亡命してきて都万国へ行ったが、魏と国交を開こうとしていたので、ヤマトへ向かい、磯城王朝で銅鏡を作った。

ヒミコ(豊玉姫)が魏からもらった道鏡よりも古い。

豊玉姫が魏鏡を100枚配った話を聞き、ヤマト側では三角縁神獣鏡を400枚以上豪族に配った。

魏の属国となった物部王国は第2次東征を考え、宇佐宮で戦勝祈願したので、宇佐宮は八幡宮(武力の神)と呼ばれるようになった。

248年に、山陰側と瀬戸内方面へ分かれて進軍。

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(上のサイトからお借りしました。)

タジマモリは出雲王国へ向った。

吉備による第1次出雲戦争の後、東出雲王国は、宮殿が目立たないように出雲王国の霊畤(祭の庭)を田和山(島根県松江市)に移した。

田和山の霊畤では、出雲型銅剣を木にかけて大祭が行われていた。

タジマモリ軍により、田和山神殿は完全に破壊。

物部朝倉彦軍が日本海を東へ進み、豊彦の息子・八綱田と菟上王が、西出雲王国王宮(智伊神社)に進軍。

穂日家のスパイによる作戦漏洩で、出雲軍は久奈子の丘(久奈子神社)に逃亡し、新しい宮殿を建てた。古志本の旧宮は破壊。豊国軍は久奈子にも攻めきて、出雲王国最後の王(第17代オオナモチ山崎帯(やまさきたらし)王)は降伏。

豊国軍の一部はさらに東へ進み、稲葉(いなば)の国で宇佐社を建て(現在の白兎神社)、イナバの白ウサギの神話が作られた。

物部軍本体は吉備王国を滅亡させ、十千根の別隊が東出雲王国を攻め、穂日家のスパイにより苦戦した東出雲王国は出雲軍の解散を宣言。東出雲王国王宮(神魂神社)から逃げ、熊野へ隠れた。

熊野大社で、出雲と物部との間で講和条約が締結。

出雲を除く広域の出雲王国の支配権を物部王国が受け継ぎ、王宮は物部十千根が使った。出雲王家は、熊野に館(熊野大社)を構え、先祖を祀った。

瀬戸内に進んだ主軍は、イクメ王(アタツ姫の息子)と、豊玉姫、豊彦、豊姫の船。

途中、豊玉姫は安芸国の埃ノ宮(えのみや)で亡くなり、宮島へ仮埋葬される。

後に遺骨は宇佐へ移され、宇佐八幡宮の奥山へ墳墓が作られた)

魏の軍事司令官は、13歳の娘・豊姫を次の女王に指名。

魏志倭人伝に台与と書かれているのが豊姫。

ヤマトへ一番乗りしたのは、田和山神殿を破壊したタジマモリ軍(ヒボコの子孫)

そこへ、吉備王国東出雲王国を滅ぼしたイクメ軍アタツ姫・コノハナサクヤ姫の息子)が到着し、河内から侵入したが、サホ彦軍磯城王朝の王子)にはばまれて、ヤマト手前の山地に陣を敷いてとどまっていた。(イクメ→生駒・いこま)

大王になろうと画策したタジマモリは、サホ彦と手を結び、イクメ軍を襲撃。

イクメ王は、出雲勢力(田和山神殿を破壊したタジマモリへ復讐するためにイクメ王と手を組んだ)の助けを借りて、タジマモリをヤマトから追放。

出雲勢(野見宿禰)の話が、相撲の始まりとして日本書紀に書かれている。三輪山の北側が相撲の発祥の地とされ、相撲神社がある。

豊国軍が到着。

イクメ王(アタツ姫・コノハナサクヤ姫の息子は、サホ彦磯城王朝)と手を結んでいたが、魏の使者の介入により豊国軍と連合。

豊来入彦サホ彦をヤマトから追い出し、イクメ王はヤマトを占領、大王となった(第11代垂仁天皇)。

イクメ大王
は、磯城王朝の娘、ヒバス姫を后とし、ヒバス姫はヤマト姫を生んだ。

ヤマト姫は、朝日信仰を大切にし、伊勢へ移住。(伊勢神宮)



出雲のその後

出雲では、物部氏の秋上家(あきあげけ)が新たな支配者となったが、物部王朝が直ぐに衰退し、秋上家は出雲で孤立して、穂日家は秋上家を圧迫するように。

穂日家のスパイ活動により、出雲王朝が滅んだ。

秋上家は富家の王宮だった神魂神社を、そのままのの神魂造りで守っていて、富家は神魂神社を守ってくれた秋上家に感謝し、秋上家の再興を助けた。




出雲の復活

出雲王朝は幕を閉じたが、富家が武内宿禰と婚姻関係を結び、曽我本家の婿養子になっていたヲホド王(継体天皇)が、天皇家に婿養子に入りし復活。今の天皇陛下に至る。


出雲大社の創建

716年に、ホヒの子孫、出雲臣果安(はたやす)は、神社の神職になりたいと、熊野神社の向家に来て「出雲に大社を建てて共同で運営したい」と言った。

向家側は、熊野大社の火切り神事を、杵築大社(出雲大社)の神主が行うことを条件とし、出資する約束をした。それは、出雲王の神を祭り、主祭神を変えないことを目的としていた。

まず、熊野大社のサイノカミ三神(久那戸大神と佐毘売神、猿田彦大神)を必ず祭ることが決められた。

古代にはサイノカミが最高神であり、記紀でも大神にランクされていた。サイノカミは「縁結びの神」で家庭でも大切にされていた。

大国主(八千矛王)が祀られた。

(当時のわらべ歌で 雲太、和二、京三(出雲の野しろが一番大きくて 大和の大仏殿が二番目、京都の大極殿が三番目)と童に謡われたそう)

富家は簸川郡簸川村にも別邸を構えた。(富村・とびむら)

富家は熊野大社から 先祖神の一部を富村へ移して「富神社」を創建。

ご祭神は、稲田姫(初代オオナモチ、菅の八井耳のお后)、八重波津身(第8代スクナヒコ)、鳥鳴海(第9代オオナモチ)、国押富(第10代オオナモチ)など。



神主が死亡した場合は、神魂神社に火切り神事を先に受けた息子が、次の神主になった。

出雲大社の創建 斎木雲州著「出雲と蘇我王国」第5章 向家が出資し建てた ホヒの子孫の出雲臣果安の失業対策だった


蘇我氏

天村雲から6.7代経たのち、同族の高倉下の子孫の嫁をもらい、武内大田根(武内宿禰)が生まれれ、武内宿禰が出雲入りし、蘇我石川宿禰が生まれる。

蘇我氏の後裔は、葛城氏や長江ソツヒコとしては繁栄する。

武内宿禰(239年にヒミコの使いで魏にいった人物)の墓は、神原神社古墳。景初三年の三角縁神獣鏡は、武内宿禰が磯城王朝の為に作った鏡。

蘇我家の大刀自(女後継者)に、出雲の男系が入り婿したのが、継体天皇。

当時、蘇我氏は、北陸に勢力を持っていて、後、継体が天皇になる事を条件に離縁させられ、安閑・宣化と欽明の二王朝対立を招いた。

「出雲と蘇我王国」 ③ 蘇我氏


神功皇后

ヒボコの子孫に息長垂姫・オキナガタラシヒメ(神功皇后)がいて、母親がヒボコ系。

辰韓の王家が断絶して、家来が新羅を起こした時期、神功皇后は新羅を自分が受け継ぐ権利があると主張し、三韓遠征が始まった。

神功皇后は仲哀天皇の后ではなく、成務大王の后。神功皇后の伝承は、出雲と神床家では完全に一致している。

4世紀の神功皇后の三韓征服で、新羅、百済、高句麗から年貢が納められることになった。

応神天皇の頃から任那(みまな)に官家が置かれるようになった。

三国からの年貢が集まり、倭国は栄え、古市、百舌鳥古墳群といった大阪平野の巨大古墳群は、その潤った財力のお蔭で造られた。

オホド王(継体天皇。出雲富家次男)の蘇我王朝へ交代すると、朝鮮側が新王朝には年貢を受け取る権利がないと訴えた。

和国大乱~日矛の渡来と吉備王国

九州王朝説と出雲伝承



いろいろ複雑すぎる…。他のも、もうちょっと読んでみよう…。

新羅はローマ人が造ったという話があり、ローマは漢字で羅馬、新羅は新しいローマの意味だそう。

(スサノオ→新羅神→源氏、武田信玄)

この辺のことがもうちょっと分かってくるかも。



神武天皇のヤマト入りに抵抗したというナガスネヒコは富氏で、鳥見山は三輪山の南と東の2つあり、神武天皇が大嘗祭を行ったと言われる、霊畤の伝承地、鳥見山の等彌神社(とみじんじゃ)には、猿田彦(道祖神)や金鵄の六角形(龍鱗紋)の甲羅を持つ亀の手水舎(龍(蛇)を祀るのは龍鱗紋を持つ出雲族。桜井市出雲地区の十二柱神社も同じ)など、地名を含めて出雲族(トビ・鵄一族)の痕跡が多くあり、三輪山も同じらしい。

また、記紀でには、ヤマト姫が伊勢神宮の内宮を創建する前に、伊雑を訪れ、伊佐波登美命の協力を得ているという記述もある。

出雲から大和にやってきた野見宿祢は出雲の土師氏で、野見はトミ。菅原道真も土師氏。

ホツマツタヱも参考にしていきたい資料で、古墳に生き埋めにされる家臣(殉死)のことを嘆いた垂仁天皇が野見宿禰に相談し、野見宿禰は出雲から土師氏たちを呼んで埴輪が作られた、とされている。

はにわの起源【CGS いときょう 縄文ホツマツタヱの旅 第42回】



松原照子さんが言ってたことも気になっている。

  • 天照大神は異民族文化を取り入れたとか。特に文化神パール(バアル神)の貢献を大いに喜んだようです。
  • 神武天皇は鳥見山(奈良県宇陀市と桜井市の境に位置する山)に天神エホバ(ヤハウェ)をお祭りしたとか。
  • ヒッタイト帝国はセム族によって押し出され、日本の島にやってきたのだとか。ところがセム族は彼らを北海道まで追い上げるのでした。

照子さんの言葉を当てはめると、ヒッタイト帝国がナガスネヒコ(富氏)で、セム族が神武天皇(徐福の部族)ということに。

メソポタミア方面からの渡来系は、年代、形(宗教)を変え、何度も来てるからややこしい。



ホツマツタヱに記録されている国譲りには、

スサノオが作った王朝に婿に入ったオオナムチ(大国主)は岩木山に行った。

調子に乗ってるオオナムチを制するために、天照大神(ニギハヤヒ)の子、ホヒノミコトを遣わしたが懐柔され、フツヌシとタケミカヅチを遣わした。

オオナムチ(大国主・大物主)は警察庁長官・のような役職で右大臣。

子供(弟?)櫛彦(エビス・事代主・補佐)のアドバイスを受けて国譲りをし、岩木山神社に行き、現国玉(ウツシクニタマ)の神として祀られている。(黒沼家)松本清張が出雲と岩木山の言葉が同じと言っている。

事代主は大神神社に行き、6代目の大物主は金比羅山に行った。

伊勢は伊雑宮が中心で、アマノコヤネ(左大臣)が神主だった。

と書かれているらしい。


金比羅山はコトシロが訛ったもので、ホツマに出てくる泡輪宮(阿波宮・コトシロが館)ではないかとか。

そしてオオナムチ(ナガスネヒコ?)が行ったという岩木山というとキリストの墓があって、ナニャドヤラ音頭のヘブライ語が有名。保江邦夫さんが言うには、キリストの噂を聞きつけて、テンプル騎士団が来たのではないか?とのこと。

昔の東北は、十三湊の安藤王国などもあって、貿易で賑わっていたらしい。



さらに、出雲の巨大神殿は、ピラミッドの階段と傾斜が一緒だったという。
ギザのピラミッドはミトラ神殿で、祭神の大国主命はミトラとなるという説や、キリスト祭はミトラの夏至を祝う祭祀との話もある。

大嘗祭もエジプト由来だったり、忌部氏の祖神もラーやキュクロープスを匂わせる神だったりする。

出雲忌部(櫛明玉命)、紀伊忌部(彦狭知命)、阿波忌部(天日鷲神)、讃岐忌部(手置帆負命)、筑紫・伊勢忌部(天目一箇命)

忌部氏は、婚姻関係を結んで、物部系忌部から秦氏系忌部になったらしい。


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ここからお借りしました。


他に参考にしたサイト↓


by cookiecount | 2020-12-25 07:29 | 歴史考察