富氏・登美氏・トビ氏(向家文献)
2020年 12月 25日
出雲と蘇我王国ー大社と向家文書ー 斎木雲州(大元出版)

富氏伝承は、国譲り神話を出雲側から見た本当の歴史みたいなことらしい。
サイノカミ(塞の神)の主神クナトは古代インドの王であったが、部下を引き連れてゴビ砂漠を北上し、シベリアのアムール川を下り、津軽半島に上陸して、本州を南下して出雲に着いた。出雲とはもとは「出芽」だった。
信濃に建御名方命、大和に登美族(太田田根子→加茂(鴨)氏、大三輪氏)などの出雲族の分家が出来ていき、それぞれが土着の民人と融合し、地方の支配者となり、各地の大国主命となった。
出雲神族の神裔たちには、オオクニヌシやコトシロヌシ、ホアカリなどがいた。
倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻によると、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものだったという。
神武天皇のモデル、海村雲(あまのむらくも)が即位したのは紀元前2世紀頃。
初代は八耳王(やつみみおう)、8代目は八千矛(やちほこ、古事記の大国主)、8代目副王は八重波都身(やえなみつみ、古事記の事代主)。事代主(言治主)は武力ではなく言葉で支配するという意味。
徐福は、枯死事件の後に出雲を去り、秦に帰国。その後、九州に行き、吉野ヶ里遺跡を作り、物部氏(ニギハヤヒを祖神とする海洋系の部族集団)になった。
徐福がいなくなり、出雲側とホヒらとは、長い時間をかけて一応和解し、出雲国造が出来た。
徐福の子、五十猛は丹波に移住して、海部となり、登美家とともに海部王朝を作った。(→磯城王朝、籠神社、綿津見神:宗形氏、安曇氏、住吉神:津守氏)
出雲では祖神の魂を具現化する勾玉(タカラ)を付ける王家は、財筋(たからすじ、秘密結社)と呼ばれる。(12軒)
- 神武天皇→アマノムラクモ(海王朝)
- 綏靖天皇→ヌナカワ
- 安寧天皇→タマテミ(磯城王朝)
- 懿徳天皇
- 孝昭天皇
- 孝安天皇→オシヒト
- 孝霊天皇→フトニ
- 孝元天皇→クニクル
- 開化天皇→オオヒビ
- 崇神天皇→イニエ(物部王朝)
- 垂仁天皇→イクメ
- 景行天皇→オオシロワケ
第2の戦乱:第一次出雲戦争(③④)…フトニ大王(7代大王の孝霊天皇)が出雲を攻撃し、吉備王国を作る。出雲の弱体化
第3の戦乱:第一次物部東征(⑤)…物部がヤマトへ進出する足がかりとなる
第1次物部東征(神武東征のモデル)のリーダーが5・6代目(ヒコナギサタケ王)の王子、イツセで、ヤマト軍(磯城王朝)のリーダーは大彦(記紀では長髄彦・ながすねひこ)。
イツセは出雲王家の親族の名草村の戸畔(とべ)に殺され、弟のウマシマジがリーダーに。(イワレビコではない)
ウマシマジ軍が上陸した熊野は物部系スサノオ(徐福)信仰。ヤマトへ向かわず残った人たちが熊野に定着していった。(徐福公園)
大彦(長髄彦)は伊賀に王国をつくろうとヤマトを去り、出雲王家の分家の太田タネヒコ(オオタタネコ、三輪山の大神神社の初代神主)が、熊野の物部勢を導いて自分が大王になろうと考えた。(八咫烏・中国の信仰)
三輪山の鳥見山(とみやま)の(三輪山の太陽神の遙拝地は出雲族の信仰)等彌神社(とみじんじゃ)境内から、八咫烏の土偶が発掘されている。
フトニ大王の後、ヤマトの大王となったクニクル(第8代孝元天皇)は、物部と妥協し、物部氏の娘、ウツシコメを妃として迎えたが、出雲は太陽神を祀り銅鐸をシンボルとするサイノカミ信仰、物部は鏡を木にかけて祀る道教神崇拝で揉めた。
太田タネヒコは、物部勢の武力でヤマトの出雲勢力を弱体化し、三輪山の祭主となった。
三輪山の南(鳥見山)での祭りは、太田家の領地の三輪山の西(鳥見山)で行われるようになり、祭主が太田家になると、サイノカミ信仰の春と秋に太陽女神を祀る姫巫女(ヒメミコ)に娘のモモソ姫が推挙され、これが魏志倭人伝の卑弥呼となった。
太田家の領地は、纏向遺跡(まきむくいせき)。
魏志倭人伝に書かれたヒミコ(卑弥呼)は、実際には2人のヒメミコ。男王が70~80年(海王朝)続き、147年~188年の倭国大乱(磯城王朝)の後、ヒミコが女王となって平和が来て、ヒミコの弟がヒミコの世話をしたと書かれ、この190年ごろのヒミコがモモソ姫、弟は太田タネヒコのこと。
祭は物部勢の祭具の鏡を取り入れた形になっていき、丸い鏡は太陽の女神のご神体とされた。
オオヒビ(第9代開化天皇)のとき、太田タネヒコは物部勢をヤマトから追いだし、物部勢は九州へ戻った。
太田タネヒコは桜井茶臼山古墳に、息子の大御食持(おおみけもち)はメスリ山古墳に葬られた。
古墳の発祥は吉備(前方後円墳)で、出雲の四隅突出型墳墓は古墳には含められていない。前方後円墳は道教に由来するもので、徐福と出雲の融合。前方後円墳の始まりは太田遺跡。
物部の本家(徐福の子孫)は筑後平野(吉野ヶ里遺跡)にいて、232年ごろ、御真木入彦(みまきいりひこ・イニエ王・第10代崇神天皇)王は、薩摩半島の笠沙(かささ)でアタツ姫(アタの豪族の娘)に会い、后に迎えた。
記紀では、ホホデミ(ニニギ)が木花咲耶(このはなさくや・神阿多都比売)姫に求婚するが、姉の石長姫(いわながひめ)も一緒に迎えないと、あなたは短命になると警告され、醜女(しこめ)だったから実家に返したという話がこれにあたる。
イニエ王は都万(つま)国に都を造り(西都原・さいとばる遺跡)、アタツ姫(コノハナサクヤ姫)はイクメ王子を産んだが亡くなり、宇佐から豊玉姫を后として迎えた。これが第二のヒミコ。
豊玉姫が生んだのが豊彦と豊姫。豊姫は豊来入姫(とよきいりひめ)、豊彦は豊来入彦。
魏は、漢を滅ぼした道教を弾圧して、勢力が強まっていた。
大彦は、第一次物部東征で北陸(クヌガ国)に逃げていて、クナ国の王クコチヒコは大彦の息子の久々知彦(ククチヒコ)。魏志倭人伝の使者、難升米(なしめ)はタジマモリのこと。
魏から贈られた100枚の道鏡は、道教の乱で禁止され、廃棄された道鏡をもらってきたもの。
豊玉姫が魏鏡を100枚配った話を聞き、ヤマト側では三角縁神獣鏡を400枚以上豪族に配った。
魏の属国となった物部王国は第2次東征を考え、宇佐宮で戦勝祈願したので、宇佐宮は八幡宮(武力の神)と呼ばれるようになった。
248年に、山陰側と瀬戸内方面へ分かれて進軍。

タジマモリは出雲王国へ向った。
吉備による第1次出雲戦争の後、東出雲王国は、宮殿が目立たないように出雲王国の霊畤(祭の庭)を田和山(島根県松江市)に移した。
タジマモリ軍により、田和山神殿は完全に破壊。
物部朝倉彦軍が日本海を東へ進み、豊彦の息子・八綱田と菟上王が、西出雲王国王宮(智伊神社)に進軍。
穂日家のスパイによる作戦漏洩で、出雲軍は久奈子の丘(久奈子神社)に逃亡し、新しい宮殿を建てた。古志本の旧宮は破壊。豊国軍は久奈子にも攻めきて、出雲王国最後の王(第17代オオナモチ山崎帯(やまさきたらし)王)は降伏。
豊国軍の一部はさらに東へ進み、稲葉(いなば)の国で宇佐社を建て(現在の白兎神社)、イナバの白ウサギの神話が作られた。
物部軍本体は吉備王国を滅亡させ、十千根の別隊が東出雲王国を攻め、穂日家のスパイにより苦戦した東出雲王国は出雲軍の解散を宣言。東出雲王国王宮(神魂神社)から逃げ、熊野へ隠れた。
熊野大社で、出雲と物部との間で講和条約が締結。
瀬戸内に進んだ主軍は、イクメ王(アタツ姫の息子)と、豊玉姫、豊彦、豊姫の船。
魏の軍事司令官は、13歳の娘・豊姫を次の女王に指名。
ヤマトへ一番乗りしたのは、田和山神殿を破壊したタジマモリ軍(ヒボコの子孫)。
大王になろうと画策したタジマモリは、サホ彦と手を結び、イクメ軍を襲撃。
豊国軍が到着。
豊来入彦がサホ彦をヤマトから追い出し、イクメ王はヤマトを占領、大王となった(第11代垂仁天皇)。
イクメ大王は、磯城王朝の娘、ヒバス姫を后とし、ヒバス姫はヤマト姫を生んだ。
出雲では、物部氏の秋上家(あきあげけ)が新たな支配者となったが、物部王朝が直ぐに衰退し、秋上家は出雲で孤立して、穂日家は秋上家を圧迫するように。
出雲王朝は幕を閉じたが、富家が武内宿禰と婚姻関係を結び、曽我本家の婿養子になっていたヲホド王(継体天皇)が、天皇家に婿養子に入りし復活。今の天皇陛下に至る。
出雲大社の創建
716年に、ホヒの子孫、出雲臣果安(はたやす)は、神社の神職になりたいと、熊野神社の向家に来て「出雲に大社を建てて共同で運営したい」と言った。
向家側は、熊野大社の火切り神事を、杵築大社(出雲大社)の神主が行うことを条件とし、出資する約束をした。それは、出雲王の神を祭り、主祭神を変えないことを目的としていた。
まず、熊野大社のサイノカミ三神(久那戸大神と佐毘売神、猿田彦大神)を必ず祭ることが決められた。
古代にはサイノカミが最高神であり、記紀でも大神にランクされていた。サイノカミは「縁結びの神」で家庭でも大切にされていた。
大国主(八千矛王)が祀られた。
(当時のわらべ歌で 雲太、和二、京三(出雲の野しろが一番大きくて 大和の大仏殿が二番目、京都の大極殿が三番目)と童に謡われたそう)
富家は簸川郡簸川村にも別邸を構えた。(富村・とびむら)
富家は熊野大社から 先祖神の一部を富村へ移して「富神社」を創建。
ご祭神は、稲田姫(初代オオナモチ、菅の八井耳のお后)、八重波津身(第8代スクナヒコ)、鳥鳴海(第9代オオナモチ)、国押富(第10代オオナモチ)など。
天村雲から6.7代経たのち、同族の高倉下の子孫の嫁をもらい、武内大田根(武内宿禰)が生まれれ、武内宿禰が出雲入りし、蘇我石川宿禰が生まれる。
武内宿禰(239年にヒミコの使いで魏にいった人物)の墓は、神原神社古墳。景初三年の三角縁神獣鏡は、武内宿禰が磯城王朝の為に作った鏡。
蘇我家の大刀自(女後継者)に、出雲の男系が入り婿したのが、継体天皇。
ヒボコの子孫に息長垂姫・オキナガタラシヒメ(神功皇后)がいて、母親がヒボコ系。
辰韓の王家が断絶して、家来が新羅を起こした時期、神功皇后は新羅を自分が受け継ぐ権利があると主張し、三韓遠征が始まった。
神功皇后は仲哀天皇の后ではなく、成務大王の后。神功皇后の伝承は、出雲と神床家では完全に一致している。
4世紀の神功皇后の三韓征服で、新羅、百済、高句麗から年貢が納められることになった。
応神天皇の頃から任那(みまな)に官家が置かれるようになった。
三国からの年貢が集まり、倭国は栄え、古市、百舌鳥古墳群といった大阪平野の巨大古墳群は、その潤った財力のお蔭で造られた。
オホド王(継体天皇。出雲富家次男)の蘇我王朝へ交代すると、朝鮮側が新王朝には年貢を受け取る権利がないと訴えた。
和国大乱~日矛の渡来と吉備王国
九州王朝説と出雲伝承
また、記紀でには、ヤマト姫が伊勢神宮の内宮を創建する前に、伊雑を訪れ、伊佐波登美命の協力を得ているという記述もある。
出雲から大和にやってきた野見宿祢は出雲の土師氏で、野見はトミ。菅原道真も土師氏。
はにわの起源【CGS いときょう 縄文ホツマツタヱの旅 第42回】
- 天照大神は異民族文化を取り入れたとか。特に文化神パール(バアル神)の貢献を大いに喜んだようです。
- 神武天皇は鳥見山(奈良県宇陀市と桜井市の境に位置する山)に天神エホバ(ヤハウェ)をお祭りしたとか。
- ヒッタイト帝国はセム族によって押し出され、日本の島にやってきたのだとか。ところがセム族は彼らを北海道まで追い上げるのでした。
照子さんの言葉を当てはめると、ヒッタイト帝国がナガスネヒコ(富氏)で、セム族が神武天皇(徐福の部族)ということに。
ホツマツタヱに記録されている国譲りには、
スサノオが作った王朝に婿に入ったオオナムチ(大国主)は岩木山に行った。
調子に乗ってるオオナムチを制するために、天照大神(ニギハヤヒ)の子、ホヒノミコトを遣わしたが懐柔され、フツヌシとタケミカヅチを遣わした。
オオナムチ(大国主・大物主)は警察庁長官・のような役職で右大臣。
子供(弟?)櫛彦(エビス・事代主・補佐)のアドバイスを受けて国譲りをし、岩木山神社に行き、現国玉(ウツシクニタマ)の神として祀られている。(黒沼家)松本清張が出雲と岩木山の言葉が同じと言っている。
事代主は大神神社に行き、6代目の大物主は金比羅山に行った。
伊勢は伊雑宮が中心で、アマノコヤネ(左大臣)が神主だった。

初代神武天皇の大嘗祭の地!?(1)/鳥見山霊時
古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 57.和国大乱の舞台 伯耆の国 楽楽福(ささふく)神社界隈を歩く 2017年3月29日 その1
神武天皇の即位を紀元前660年とした理由



