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中華の「か」は、華じゃなくて夏?

中華の「か」は、華じゃなくて夏だと言ってる人がいて、Wikiによると、

夏(BC1900年頃-BC1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。

とか。

二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当するのだそうで、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多いらしい。二里頭文化というと、トルコ石を使ったこんなものが出土しているらしい。

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場所はこんな感じ。もう少し西に行くと西安。
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幻の王朝とも言われていて、殷(前17〜前11世紀)に滅ぼされたらしい。

夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人顓頊の孫で、帝堯の時代に、紀元前1920年に起きた大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた。舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。禹は舜の崩御後、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。

謙虚で民のために力を尽くし、なんとも理想的な夏王朝の始祖、(う)。

ちなみに、三皇五帝(さんこうごてい)は古代中国の神話伝説時代の8人の帝王のことで、三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされたのだとか。誰を持って三皇五帝となすかは諸説あり、史記では三皇は、天皇・地皇・人皇、または、伏羲・神農・女媧、で五帝は、黄帝、顓頊、嚳、堯、舜、なのだとか。

下のブログによると、前21世紀の夏王朝時代、九夷と呼ばれた異国人がどこからともなく中国史に姿を表したのだそうで、古文書「竹書紀年」に記載されていたらしい。その九夷はシュメールから来たイスラエル12部族なのではないかという話です。

九夷の原点に潜むシュメール人

九夷は東夷とも呼ばれ、漢民族が東方にあると考えた九つの国で、畎夷(けんい)、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷、于夷という名前だったらしく、ちょうどその頃勢力を勢力を持ち始めたイスラエル12部族と月や色の共通点もあるようで、ナフタリ族は1月の緑、ヨセフ族は2月の白、ベンジャミン族は3月の黒、ルベン族は4月の銀、シメオン族は5月の金、レビ族は6月の紫、ユダ族は7月の茶、イッサカルは8月の黄、ゼブルン族は9月の桃、ダン族は10月の青、アシェル族は11月の赤、ガド族は12月の灰と割り当てられているのだとか。その他の文化的特徴からも、多くのシュメール人が東アジアに移動し、九夷の原点となったのでは?と。

※東夷は後に山東省、朝鮮、日本から来た人という意味になった。

北イスラエル王国が消滅(BC722)して難民たちが東に移動したと考えられる頃は、中国の覇者の時代、春秋時代(BC770-BC403かBC405)にも重なり、難民の流入(前8〜前6世紀)により均衡が崩れていったのではないかと。

後漢書東夷伝による東夷の特徴は「酒を飲み、歌舞することが好きで、冠を冠り、錦の衣を着る」「器具には俎豆(祭事に使う足つきの器)を使用する」「政治には道義が行われ、法は7〜800年続き、穏やかに行動し、心に慎むことを習慣としている」と書かれているらしい。モーセの律法ができた時代から計算しても当てはまるらしい。

隋書列伝には「服装は一般的なものと礼服とが兼ね備わり、儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読」と書かれ、孔子はイスラエルのルーツを語り、東夷を敬愛していたとか。諸子百家の肖像画では孔子や老子は西アジア特有の顔つきしていて、彼らの多くはイスラエル人である可能性があり、孔子の身長は2mで、中国のさらに東方の「君子の国」「不死の国」に憧れていたらしい。

シュメールやイスラエルの人たちは、東方に楽園の地が存在することを語り継がれていたようで、東に移動してきたという経緯があるらしい。



中国の歴史の流れは、その後の秦(BC221-206)を境に一変し、それは日本の古代史が激変する前触れでもあったようです。



前に、

中国の西安には「火を吹く籠に乗って地球にやってきた“天の子”たちが、この地にピラミッドを建造した」という言い伝えがあり、竹内文書には、スメラミコトの子「盤支那弟清民王」が赴き、その地を 祖国「天津(あまつ)国」にちなんで、「天津」と称し、そこが現在の天津市になった。子孫には、「華唐古氏」~ 伏義氏・神農氏の系統と(これらは中国の神話の世界とされている)、「支那華氏」~ 北京氏・南京氏・福建女氏・四川平氏ら系統がいる、と記されているらしい。

という話を書いていて、すっかり忘れていのですが、


東夷というと、日本では、確か東北地方の人たちのことを「あずまえびす」と呼んでいたよなと。

そうなると日高見国も気になってきたりして、気がつくと、イスラエル・シュメール・スサの王 → 東北にあった日高見国・十三湊 → 中国の順で気になり、それらは端々で繋がっていたりするのでした。


先日行った旅行でも、沢山の気になることが出てきて、武漢には神農架という神農がいたとされる地域があり、ボン教とチベット仏教、道教…。そしてナシ族の神話やその他雲南地方の諸民族の類話には、日本神話における「オオナムヂがスセリビメを娶った話」とよく似た神話があり、東アジア広域にわたる比較神話学の研究対象となっている…。気になります。





# by cookiecount | 2019-06-03 12:21 | 雑学 | Comments(0)